PORTRAIT DE CHEF HISSA

Par Fabien Nègre


ポートレート

このポートレートは、シェフの旧レストランで制作された。
パリ15区の、気づかれぬほど静かな歩行者専用路にて――詩人であり先駆者、弁当のスターであり、アーティスティックなパフォーマー、新しい日本料理の異端的デザイナーである竹内寿幸、通称「HISSA」。
彼の小さな「Maison KAISEKI」は、同業の仲間や真の美食家の間で名高く、群島の至高の味をそのきらめく自然光の中に投影していた。

1961年11月12日、愛媛県西予市、四国の山深い南部にある村落の灯の下、この繊細な感受性を持った男は生を受けた。2004年以降人口4000人のこの町において、「竹内」とは「竹の家」を意味する。
謙虚な農家の息子として、ゆずの都であるその土地を歩き、家族の畑でキノコを摘み、大根や菊を育てた。母は「料理上手」で、甘辛の餅菓子を息子に教え込んだ。14歳のとき、肉を愛する知的な若者は修行に入り、やがて未来の天皇・明仁の食事の準備に参加する日が訪れる。彼は帝国料理チームの信頼できる助手として迎え入れられた。

20歳前後で彼は決意する――「フランス料理人になる」と。「田舎でフランス料理を作っていたのだ」と語る。後にトヨタのコンサルタントとなる青年は、日本料理、西洋料理、中国料理にも挑戦した。エスコフィエのガイドを抱えて丸一日読み込み、友人の勧めで東京に急ぐこととなる。高校を中退した彼は、独学で図書館に通い詰め、文学、芸術、哲学を学んだ。
「ルソー、ジッド、フーコーを読んでいた。『言葉と物』における言説分析は、私を絵画や囲碁の世界、あるいはアインシュタインの量子力学へと導いたのだ」。

やがて1981年、彼に3つの道が開かれる――ホテルオークラ、帝国ホテル(フランク・ロイド・ライトによる最も有名な建築作品の一つ)、そしてピアジェ・ビルのレストラン。彼が選んだのは後者であり、そこには水口多喜男シェフが輝いていた。
「フランスもフランス文化も知らなかったが、あらゆる調理技術を身につけていた。当時は全ての生鮮品、チーズ、有名なカマンベールまでもが空輸されてきた」。皇帝もしばしばこの店を訪れ、そこには日本で最初の「フレンチ串焼き」があった。

フランス料理は圧倒的な成功を収めた。

他の大料理人たちも東京でその芸を披露していた。村上シェフは昭和天皇の料理人であり、40年代に「ラ・トゥール・ダルジャン」で修業した。秋山徳蔵はソースとフォンドヴォーの達人であり、エスコフィエを翻訳し、フランス料理史を著した。
24歳で「ライブクッカー」は東京のシェフという憧れの地位に到達。「夢だった」。その後、銀座の「赤ずきん亭」で働き、パティスリーの研鑽を積んだ。パティシエ鈴木一八のもとで、彼は軽やかなフランス菓子の真髄を学ぶ。

料理は技術の完全な習得から生まれる。良い料理とは、素材、火入れ、味付けがすでにそこにあるからだ」。

1985年、創造的スタイルをさらに深めるため、そして「日々の新鮮さ」を生む思索と芸術の道を追い求め、彼はパリへ渡った。アリアンス・フランセーズに通い、フランス語とパリの文化に没頭した。

1986年、ブシコー通りにあった小さな日本料理店「KISUKE」で妻となるエリザベス・ポール=竹内に出会う。彼女は多言語を操る言語学者であり、味の芸術家として大きな役割を果たす。
ポール・ボキューズ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペルに魅了されつつ、特にジャック・マキシマンを「料理界のランボー」と称賛した。

1987年、遠藤周作の信仰から着想を得て小説を書こうと決意。魚の出汁、鶏のジュ、テリーヌやブイヤベースを抱えながら、正規の給与と契約を求めて職を探したが容易ではなかった。唯一、1995年にリュカ・カルトンのアラン・サンドランスが彼を迎え入れ、懐石メニューを共に考案。「彼のワイン、シャトー・ゴトールと私の料理は完璧に響き合い、20点満点を超える評価を得た」。

その後も数々の試練と挑戦を経て、1999年に「Maison KAISEKI」を開店。伝統的な宴を「長寿の饗宴」として再定義し、高級ガストロノミーの研究所として革命をもたらした。
「日本料理はブームだったが、誰も本質を理解していなかった。私は客と直接つながりたかった。同じ目線で。料理人は奉仕者だから」。
パリの同時代の多くの料理人(カムドール、フレション、バルボら)に影響を与えた彼は言う。「カウンターをなくすこと、それはナイフと音楽を伴った劇場だ」。

2004年、フェスティバル「Tokyozone」で「cuisine-live(ライブ料理)」と名付けたパフォーマンスを披露。抹茶とオリーブオイル、抹茶と唐辛子など、新しい組み合わせで甘味と塩味の境界を超え、日本の新しいパティスリーを切り拓いた。

彼の美学は常に「自然と文化の交差」に根ざしていた。
「自然は神の痕跡を残す。料理に神がいなければ、それは料理ではない。日本では神と共に食事をする。食べることは共鳴なのだ」。

郷土・愛媛の砥部焼を愛し、古い器に「ひも理論」のような構造美を投影。2007年には『グラン・ラルース・ガストロノミック』の「日本」項目も執筆した。
「食べることは幸運であり科学だ。私は無駄にしない。トリュフからアジ、キャビアからニンジンに至るまで」。

日本の伝統「お任せ(おまかせ)」では即興が命。切り方も味付けも客ごとに変わり、真の創造は一瞬の中で起こる。
「料理とは予兆だ。皿には暗号や記号が潜んでいる。観察し、受け取り、即興する」。

モンドリアン寿司や「ピカピカ寿司」を創り出し、訪れる人の幸福を拡張した。「私は一瞬、一挙手ごとに全感覚で表現する。料理は美術のひとつである」。


Hisayuki Takeuchi

竹内寿幸(たけうち ひさゆき)

私は愛媛県西予市、山間の農家に生まれました。
子どものころから畑に出ては、野菜や米の成長を見つめ、季節の変化に心を動かされてきました。食材への敬意や、自然との対話というものは、この頃から私の中にあったのだと思います。

14歳で料理の世界に入り、今治で西洋料理の修行を始めました。その後、東京に移り、水口多喜男氏のフランス料理店で本格的な料理の道を学びました。料理人としてだけでなく、人としても大きく成長できた大切な時期でした。

また、シェフパティシエの鈴木一八氏のもとでは、洋菓子の世界にも触れました。素材の組み合わせや、味の余韻、美しさをどう形にするか──この経験が、後の私の創作に大きな影響を与えてくれました。

「KAISEKI」という名の“研究所”パリで始めて

1985年にフランスへ渡りました。当初は作家を志していましたが、やはり私の手は自然と食材を求めていたようで、料理人としての歩みを再び進めることになります。

1999年、パリ15区に「KAISEKI」という名の小さな店を開きました。私にとってこの店は、レストランというより、料理の研究所でした。オーガニック食材、自然派ワイン、日本の器、空間美──すべてが一つの芸術として響き合う場を作りたかったのです。

私の料理は、伝統的な日本料理を軸にしながら、フランスの素材や技法も柔軟に取り入れています。たとえば、抹茶とオリーブオイルを合わせたソースは、デザートにも料理にも応用できる独自の世界を生み出しました。

また、「Maki Pikapika」や「Maki Dondon」など、果物や西洋の素材を大胆に取り入れた寿司も生まれました。遊び心と深い美意識の共存こそ、私が目指す“kaiseki”の姿なのです。

教えること、伝えること

2001年からは「エコール・ド寿司」という学校を始めました。日本料理は、技術だけではなく、素材の選び方、季節感、空気のような“間”を含んだ文化だと私は思っています。

だからこそ、プロ・アマ問わず、目の前でともに包丁を握りながら、一つひとつの所作の意味を丁寧に伝えています。生徒の中には、フランスで寿司店を開業された方も多く、日本文化の担い手として誇りに思っています。

私が大切にしていること

料理とは、日々変わっていくもの。
完成ではなく、更新され続けるべき芸術です。

私の料理哲学には、「永続的な美の追求」があります。
それは、食材、器、空間、すべてを通して人の心を動かし、癒すものであるべきだと信じています。

これからについて

引退を迎える今でも、料理への情熱は変わりません。
これからは、もっと多くの人に、日本料理の本質──“素材への敬意”“時間の流れ”“手仕事の意味”──を伝えていきたいと思っています。

オンライン講座や書籍、トークイベントなど、形を変えてでも「本物の味」や「美しい心」を広めていく活動を続けていくつもりです。

ご縁があれば、ぜひ私の料理や考え方に触れていただければ嬉しく思います。ありがとうございました。

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